就活の付加価値を考察してみましょう
エレクトロニクスの発展にともなって、最近ホームーオートメーションということが喧伝されている。
私も以前、座ったままで家中の照明をコントロールできる装置をわが家につけたことがあるけれど、すぐヤメになった。
暖房の自動切り換えタイマーも備わっているのだが、やはりヤメになった。
いまは、つけたらつけっぱなしである。
住まいというものには、まずむずかしい複雑な装置はいらないと私は思う。
仮に本当に精確にオートメーション化されたとしても、住むという基本的なありよう自体には、まったく不必要であると私は思う。
生活というものには、原始的で煩雑で面倒くさいことが必要なのである。
それが逆に動きになっているはずなのである。
機械がみんなやってくれるとしたら、住んでいる人間は何もやることがなくて途方に暮れてしまうか、機械に縛られるかしかないだろう。
時計を考えてみればよい。
時計がなかったなら、われわれは時間にこれほど束縛されることはなかったろう。
朝・昼・晩というくらいの、ラフで、しかしいまより確実に健全な生活が可能であったと思う。
新しい機械、それも新しい有効性をもった機械というのは、必ず人間を束縛するものである。
だから、便利ということは多面的に考えなければならない。
自動車の発明がはたして本当に便利と結びついたか、誰しも考えるだろう。
生活の道具に関しては「あると便利」というものと、「無ければ生活不能」という2つのニーズがある。
冷房装置はあったら過ごしやすいというほどのものだが、暖房装置がなかったら凍え死んでしまうところもある。
だんだん『1984年』のG・Oがいうような管理社会の傾向は強まっていくだろう。
ガバメントの管理体制がそろうには、国民総背番号制などというメディアのネットワーク化は不可欠だ。
現実にオンラインシステムの家庭への導入も、それほど遠い将来のことではないだろう。
そして、管理のしめつけはだんだんきびしくなっていくはずである。
「1984年」は無事に過ぎるが、その気配は見える。
しかしそれでも、家、住居、住まいの本質は変わらない。
住まいの本質は家族のコミュニケーションである。
その中でも、もっとも絶対的なコミュニケーションは、夫婦のまじわりであろうと思それがエレクトロニクス化され、自動化されるとでもいうのなら話は別だが、住まいの本質はその意味でも変わるまい。
家相というのは、人相・手相がそれぞれ顔や手の形を観て吉凶を予見するのと同じく、家宅の形象を観相する術をいうはずだが、よく家相術は方鑑術と混同して考えられている。
正しい健全な就活は課題も多いが、就活は関係の改善と前進に向けた大きな可能性を持つ」と述べた。
就職活動は最後に来るべき要約文を最初に持ってきて就職活動としてしまったことで、。